理学部まど科

ほむオタク

わかる人にわからない人の気持ちはわからない

Twitter上で「技術系の同人誌を書きたいがこのレベルを欲しがる人がいるか問題」という話があった。自分の書ける内容についてやはり既出であるとか、もっと上位互換の本が存在しているとか考えるとそういう気持ちになる。

自分レベルのような人はその内容を欲しているかもしれない。同じようなところで詰まって悩んでいるかもしれない。そういうわけで助けようと思ってなにか書こうとしても、そのためには自分のレベルより高度な知識を要するだろうし、そうなると過去のできなかった気持ちも忘れてしまう。過去に難しいと思っていた内容を後で見返したらなんでこんなところで立ち止まっていたのか、と思うような感覚だ。何故悩んでいたのか忘れてしまうのだ。理解すると悩んでいた部分が自明に覚えてしまう。

もちろんわからない人にとって自明じゃないというのは理解できる。そのまま自明ではないだろうと書き続けると記述が冗長になり、舐め腐った感じに見え、かえって分かりづらくなる。結局目的は果たせない。

自分の発表を考えているときなどはこの壁によくぶちあたる。こういうのを物ともせず、初学者向けに書かれる教科書は本当に優秀だ。もちろんその著者も悩み抜いて書いているだろうが。

この壁、フォロワーの言っていた「自転車の乗り方」という例えがわかりやすいだろう。補助輪を外したときの感覚を乗れない子供に説明できるかということだ。参考書やウェブサイトなんかでも突然補助輪を外すことが多い。そこで後ろを押してくれる人間が必要だがそれが教師だったりチューターだったりの役割である。しかし彼らだって補助輪を外して久しい。悩み相談に乗れるのは今まさに自転車に乗ろうとしている人なのだ。それも不可能なので、結局全部自分で解決するしかなくなりまた助けを必要とする人が増える。

学習もその手助けも大変なのだ。