超かぐや姫!が面白かった。
思い出したので書いてみる。
2月末に見た。面白かった。ちゃんと順張りでハマった。キャラデザといい演出といい音楽といい、とにかく見ていて楽しい。2人の関係に目を向ければ運命とどう向き合うかという点で正反対だったところが交わって、役割が入れ替わって、もう一度「出会い」を果たす構造にも心を奪われた。泣いた。人生を肯定する話って、なんて素敵なんだろう。
そこかしこに入るオタク向けですよ感漂うノイズを含めてもなおこんなに流行っているのは不思議なところはある。順張りと書いたが、初見時には「ああそういうノリね、みんな好きだもんね」みたいな感じで斜に構えた見方をしていたので、やっぱりこれはこれで逆張りの心かもしれない。まあ、構え方が斜めだったせいで変な角度に刺さってきてしまったわけだけど。ふーん、と見ていて、彼らを好きになってきた頃合いでこの物語の元ネタが竹取物語であることを思い出して思わず涙を流してしまった。帰っちゃうんだもんね、月に。
初見時で初めに泣いたのは花火大会……で会場に向かう階段。あれだけ傍若無人に振る舞っていたかぐやが、後ろを気にする余裕を持ち、明らかに大人びた表情までしている、あのシーン。大人の階段を登るではないけど、もう成長してあの頃の無邪気な幼さには戻れないことを見ている側に嫌でも気づかせる構造。直後に言葉でも語られるけど、本当に終わりが近づいていることを感じてしまってしんどかった。
そこに限らず花火大会らへんは全部良かった。死ぬほど退屈でつまらない世界から複雑で自由で楽しそうなところに逃げてきたけど、ここの人たちもいろいろ抑えて生きている。だからこそ美しいし、自分の運命だって愛するべきでしょう?とあんなだったかぐやが気づく。楽しいものは楽しいし、腹に響く音や鼻を刺す煙の匂いという無かった概念も、その素敵なもの全てがそういう人たちの生によってできている、ならば自分だけ逃げ出すなんて、と運命に向かう覚悟をしてしまうのが切ないところだ。反対に、彩葉は逃げ出せない運命にだって抗っていいという考え方をかぐやから学んだ。学んでしまった。だけれども当のかぐやは覚悟を決めている。2人が出会った頃とは完全に反対の事を考えてしまっている。もし、ここでもう一言でも交わせていれば変わっていたかも知れない。ただ、彩葉は言えなかったし、かぐやも大人になってしまった。かぐやは大人ぶっているのではなくおどけた振る舞いのほうが無理をしていた。もう、あの時には戻れないのだから。
このシーンの重要性は2人の生き方の本質が交わったところにあるはず。「運命は抗えないもの(受け入れて覚悟するしかない)」と考える人と「運命は自分で変えていくもの(ハッピーエンドに連れていく)」と考える人の感性が一番近づいたのに、最も言葉が通じなかったのだから。わかったはずなのにわかりあえなかったことでお互いに不可逆な成長を遂げてしまった。そういうのは普通は良いことなはずなのに、お互いから学んだことをお互いに言えなかった点ですれ違ってしまった。基本的にはかぐやの成長という視点で表現されていたけど、その対比が意識されていないわけはなくて、見ながら2人の関係が完結に向かっているんだと思ってしまって……、また泣いた。
ここが対比されていることを提示した上で「再会」した彩葉が「運命を受け入れて覚悟する、その上でハッピーエンドまで向かう」と無敵みたいな回答をしたからかっこいい。どちらの考えも否定しない。それがこの物語の終着地。泣いた。
確かに本編のSF要素やストーリー展開には多少強引なところはあったかもしれない。けど、本質はここの生き方についてである。この結論を持ってきているのだから、力強い説得力を感じさせる。避けられない運命だって受け入れて、その上でハッピーエンドまで進むことが大事なのだ。逆に言えばこの話はまだ道半ば。本当のハッピーエンドにたどり着けたか?は描かれていない。おそらく、大事なのはそこではなかったのだろう。
いや、見たいけどな。それは。
LaTeXで使っている演習用プリセット
メモ。
\renewcommand{\thesection}{[問題\arabic{section}]}
\renewcommand{\thesubsection}{(\arabic{subsection})}
\renewcommand{\thesubsubsection}{(\roman{subsubsection})}
はマークアップがどうのこうのでこうして新たなアレができるらしい。
これをプリアンブル(\documentclass~と\begin{document}の間)に書いてやるとよい。この[問題1](2)(iii)のような形式は演習で使われている形式そのままである。
例として
\section{暁美ほむら}
以下の問に答えよ。
\subsection{鹿目まどか}
かわいい
\subsection{美樹さやか}
かわいい
\subsubsection{巴マミ}
かわいい
\subsubsection{佐倉杏子}
かわいい
のようにすると

こんな感じになる。
わかる人にわからない人の気持ちはわからない
Twitter上で「技術系の同人誌を書きたいがこのレベルを欲しがる人がいるか問題」という話があった。自分の書ける内容についてやはり既出であるとか、もっと上位互換の本が存在しているとか考えるとそういう気持ちになる。
自分レベルのような人はその内容を欲しているかもしれない。同じようなところで詰まって悩んでいるかもしれない。そういうわけで助けようと思ってなにか書こうとしても、そのためには自分のレベルより高度な知識を要するだろうし、そうなると過去のできなかった気持ちも忘れてしまう。過去に難しいと思っていた内容を後で見返したらなんでこんなところで立ち止まっていたのか、と思うような感覚だ。何故悩んでいたのか忘れてしまうのだ。理解すると悩んでいた部分が自明に覚えてしまう。
もちろんわからない人にとって自明じゃないというのは理解できる。そのまま自明ではないだろうと書き続けると記述が冗長になり、舐め腐った感じに見え、かえって分かりづらくなる。結局目的は果たせない。
自分の発表を考えているときなどはこの壁によくぶちあたる。こういうのを物ともせず、初学者向けに書かれる教科書は本当に優秀だ。もちろんその著者も悩み抜いて書いているだろうが。
この壁、フォロワーの言っていた「自転車の乗り方」という例えがわかりやすいだろう。補助輪を外したときの感覚を乗れない子供に説明できるかということだ。参考書やウェブサイトなんかでも突然補助輪を外すことが多い。そこで後ろを押してくれる人間が必要だがそれが教師だったりチューターだったりの役割である。しかし彼らだって補助輪を外して久しい。悩み相談に乗れるのは今まさに自転車に乗ろうとしている人なのだ。それも不可能なので、結局全部自分で解決するしかなくなりまた助けを必要とする人が増える。
学習もその手助けも大変なのだ。
